「第1種」カテゴリーアーカイブ

#012 高徳線 池谷駅 安全側線

12ヶ所目は初の徳島県内のスポットからご紹介。

池谷 (いけのたに) 駅はJR高徳線と鳴門線の分岐駅で、その特徴は何と言っても同駅の構内配線にある。
プラットホームとのりばは高徳・鳴門両線共にそれぞれ独立しており、さらに駅本屋はV字に分岐した各線の間の “谷” の部分に位置しているため、2つのホームから跨線橋を超えて改札へと向かうレイアウトとなっている。
写真はその跨線橋から南側 (徳島駅方面) を俯瞰したカットで、夏の広い空に見渡す限りのレンコン畑、遠く鎮座する山塊がまさに、私にとっての “夏の徳島” を感じさせる。

写真から2箇所が見て取れる車止めは草生していて分かりづらいが、盛りバラストの第1種車止めだろうか。これと安全側線自体の目的は、徳島方面への列車の逸走を止めるという点に絞られごくシンプルだ。
広めの構内とごちゃごちゃとした配線に、警報機のない踏切がアクセントを添え、趣味的にみて周辺の長閑さとのギャップが面白く感じられる。

単線から2つの路線へ、さらにそれぞれの路線で1面2線の島式ホームへと同時に分岐しているため、配線こそ複雑…一見すると地方私鉄の中核駅のような様相だが、近隣駅の周辺に比べこの地域はやや閑散としており、駅改札も無人であった。

今回紹介した車止めは、ふと琴電や四国の “ヨンマル” が見たくなって出かけた際、鳴門線へ立ち寄った折に記録したもの。

徳島は私にとっても縁のある場所で、阪神淡路大震災で母方の祖父母が被災 (家屋半壊) した後の数年ほどだろうか、現在も大伯母と又従兄の住む徳島へと移り住んでいた時期があり、その頃の大型連休の帰省先といえば祖父母の住む徳島だった。

初めて一人きりで搭乗した飛行機も徳島行きの便であったし、祖父母の家から自転車で行ける距離に海水浴場があったため何度か泳ぎにも行ったし、暇を持て余して半ば祖母に追い出されるように自転車に乗って外へ遊びに出かけ、これといった目的もなく走り回った時に見て記憶に残っているのは、吉野川の広い川幅や、徳島飛行場の背の高いコンクリート壁だ。

思い返せば、記憶にある幼少の頃の夏の思い出のほとんどは、徳島にあるといっても過言ではないのかもしれない。

あなたにも、ふと思い返す遠くの景色があるだろうか。

#005 奈良線 棚倉駅 安全側線

今回は103系電車の残り少ない活躍の場となった奈良線から。

奈良線は現在、京都駅ーJR藤森 (ふじのもり) 駅間と、途中の宇治駅ー新田 (しんでん) 駅間を除いて単線となっており、一部例外となる駅が存在するものの、その大半の所属駅で “安全側線” が設けられている。そんな数多くの (!?) 安全側線から、沿線での列車撮影の折に記録した1枚をご紹介したい。

奈良線内の安全側線は (ざっと確認した限りではあるが…) 乗越分岐器 + 緊急防護装置 + 積みバラストの第1種車止めという組み合わせで統一されているようで、安全側線としては路線規模に見あった相応のものという印象を受ける。

先のJRグループダイヤ改正では阪和線向け205系の転配も実施され、普通電車に関しては103系一色であった奈良線の車両も少しずつ移り変わりが予想されるのだが、線路設備についても2023年春までの計画で今後新たに延長14km分の複線化が予定されており、当然のように当該区間の (車止めを含む) 安全側線は撤去されることとなるだろう。

“去りゆく老兵” 103系の記録へお出掛けの折には、車止めや転轍器標識など、行き交う列車を見守ってきたシーナリーの脇役にも目を向けてみてはいかがだろうか。

#003 長良川鉄道 越美南線 富加駅 貨物側線跡

3箇所目は国鉄転換線からのご紹介。

今回ご紹介する車止めは、長良川鉄道 越美南線で運用されていたレールバス、ナガラ1形の最後の稼働車である10号車が引退するとのことで、同車の最後の姿を記録しようと駆けつけた際に撮影したものだ。
枯葉や枯れ枝に残雪で見分けづらいが、レール終端部は僅かにバラスト積みのようになっており、分類上は第1種車止めということになろうか。

富加 (とみか) 駅は国鉄時代には「加茂野駅」と称し、現駅名は長良川鉄道への転換時に併せて改称されたもの。
加茂野駅として開業した1923年から1963年に中止されるまでの40年間は貨物取扱も行っており (正式な扱い廃止は1974年) 、この側線は当時、車扱貨物の貨車を引き込むためのものであったと考えられる。

この側線は駅構内上り線を介して美濃太田方の本線へと接続する形をとっており、写真右手側に写っている緑色の屋根をした駅本屋へ接するような配線となっている。配線や貨物側線としてみた際のホーム有効長から、どちらかと言えば積車状態の貨車を上り列車に連結して出発する、発送扱いの方が多かったのだろうか。

貨物扱いを中止し国鉄から転換されるまでに23年。転換から撮影時までは28年と、流れた50余年の歳月の間には植木が増え、電柱が建ち、花壇が作られ…。側線の自体存在と石積み造りの短いプラットホーム、後年にコンクリートで嵩上げされた下りホームとの対比が、静かに当時の面影を伝えている。

出典: 富加駅 – Wikipedia